私たちが考えるべき日本人の英語教育

私は今まで1人で英語を子どもから大人までに教えてきました。
その中でいつも感じていたのは、「なぜ、日本人は英語を話せないのか」ということでした。

よく言われますが、日本では英語を本格的に中学校入学とともに始め、大学までの10年間ほとんどの人が英語を学びます。でも「英語の成績はよかったんですが、話せないんです」という人が多いこと。

1つの大きな要因は、日本にいて英語を話す必要性があまりないということ。
日本は島国です。他にも島国はたくさんあります。
例えば、タイやインド、特に観光地ではトゥクトゥクオートリキシャーなどの運転手でさえ英語を話します。これらの国と日本の大きな違いは、タイやインドなどでは話すか話さないかが死活問題だということだと思います。日本では、英語が話せなくても仕事はあるわけで、何か英語の取扱説明書などを読まなくてはならない場合には翻訳機能を使ったり、どこかの翻訳会社を通して翻訳してもらうこともできるわけです。

2つ目の要因は、中学で本格的に英語を始めるときに、文法を教え込むことにあります。みなさん、考えてみてください。日本語を話すときに「この会話は過去形だ」などと考えながら話しますか?
私たちが、生まれて最初に耳にするのは日本語です。そしてこの日本語を何年も聞き続け、それをある時にコトバとして外に出すわけです。赤ちゃんの時に日本語の文法を学ぶなんてありえないことですよね。

今、小学校から英語教育が始まったといいますが、私の知る限りではさほど多くのことができているとは思いません。幼稚園から始める場合もあるようですけれどね。
私は、本気で日本が英語教育を進めたいのであれば、小学校から高校までを「英会話」に特化させ、ネイティブの先生が彼らのやり方で進めていくことを推奨します。文法は高校から始めればいいのです。英語が話せれば文法も楽に入っていくでしょう。「ああ、だからこれはこういう風にいうのね」といった感じです。これはほとんどの英会話教室が思うことかもしれません。バランスが悪いのです。中学校・高校の試験では文法がわからなければ解けない問題だらけですが、学校での英語の進め方は妙にアメリカナイズされているのですから。

3つ目の要因は、私たち日本人は間違えることが苦手だということです。政治の世界を見てもちょっと間違えるとすぐに大臣を下ろされたり彼らの仕事とは関係ない私生活の問題でさえ「辞任」の対象になります。

大臣については横に置いて、英語教育については、このように考えるのはどうでしょう?

「1回の間違いは学ぶための第一歩」

私は結構、新しい英語を作り出す癖があり、ネイティブの友人からも「そんな言葉はない」と指摘されます(笑)。そうすれば私はただ「そうか、そんな言葉はないのか」と知ることになるのです。
また、英語での意味が分かっていても日本語で説明できないといった言葉も。

語学に白黒をつけすぎることで、話す英語が進まないということです。間違えてもいい。ぜひ私たちのオンラインレッスンを利用し、いっぱい間違えてほしいと思います。

4つ目の要因は、私たちは学校教育の中で「自分で考える」という教育をあまり受けていないということです。英語を話すということは、英語で考えるということ。さらに言えば、あなたの意見を「英語」で話すということです。最近は、そういった教育を進めているようにも見えますが、教える側にそういった教育を受けてきた人がいないからなのでしょうか、子供たちを見るとやはり流れに身を任せるといった感が否めません。「質問されれば、答えられるけれどその先話が進まない」というのはそういったことも影響しているかもしれませんね。

私は、英語を今でもオンラインで教えていますが、正直言ってほとんど教えていません(笑)。

なぜかというと、自分で学ぶことを調べること、自分で考えることがこれからの社会では本当に重要になると思うからです。なので、私が教える(教えていないといいましたが)子供たちは、自ら考え、自ら選ぶ子どもが多いです。教える側はある意味で「バカ」でいることが重要だと思います。

何のために英語を学びたいのか。

これは、英語だけの問題ではないのだと思います。特に留学をする場合には、この問いかけは英語だけではなく自身の大きな問いかけとしていつでも感じざるを得ないことになります。

そして、それは「苦しいこと」ではなく、「楽しいこと」なのです。

自分自身のことを自分で表現する。そして間違えてもそれを学び自分のものにして、さらに前に進む。これはいくつになっても楽しいことです。自分に限界を自ら与えず、新たな何かを見出してほしいと思いますし、私もそうありたいと思います。

インドのオートリキシャ―の運転手との値段交渉は、とても楽しいものでした。私たちは、彼らに学ぶべきことがたくさんあるように思います。そして、今の若者には、これらを学ぶだけのキャパシティがあると私は確信しています。